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神田明神と将門首塚の関係を知っていますか? - 天と地にある物事を想い巡らすサイト!よろず放談

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神田明神と将門首塚の関係を知っていますか?

カテゴリ: 散策 公開日:2019年11月28日(木)

神田明神と将門首塚の関係を知っていますか?

正式名称が神田神社である神田明神賀は東京で一番有名な神社といわれています。

所在地周辺はJR御茶ノ水駅から5分くらいのところにある「湯島台地」と呼ばれる台地で「文京区湯島」なのですが、神田明神周辺の住所だけが「千代田区外神田」となっています。

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一方、将門首塚の住所は大手町1-1で、画像の様に内堀通りに面した三井物産ビルディングと同社が現在建設中の巨大ビルディングの合間にあります。

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将門は平氏ですが、話は平安時代に遡ります。桓武天皇の孫である高持王が皇籍から離れ手、「平」の姓を賜り、上総の国(現在の千葉県南部)の国司として一族郎党を引き連れて関東にやってきました。高望家は任期終了後もそのまま関東に残り勢力を広げました。長男の系統はその後伊勢に戻り後に平清盛を輩出します。三男が下総国(現在の千葉県北部や茨城県西部)に本拠を構え、その息子が将門です。従い清盛と将門は従兄弟になります。将門の父が亡くなったことを期に、領地をめぐって一族で争いが始まり、そこで将門が中心人物に担ぎ上げられました。調停に不満を持つ地元の人達に押され様々な争いに介入し、最後は常陸国府を攻略してしまったのです。将門の勢いは止まらず次々に国府を打ち破って自らを新皇と名乗ったため、朝廷が将門を朝敵と定め、940年(天慶3年)に将門は敗れて首を打たれました。これを天慶の乱と呼んでいます。将門は朝廷から見れば敵でしたが、関東では戦に強く英雄だったのです。平将門の首はいつの間にか京から持ち去られて、神田明神に葬られたのです。何故神田明神なのかは未だにはっきり解っていません。一方、神田明神は武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、730年(天平2年)に、大己貴命を祖神として祀ったのに始まります。現在の大手町はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称したのです。14世初頭に 疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養され、1309年に現在の神田明神の相殿神とされ地位が固まりました。神田明神の主祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の別名のひとつとされています)で縁結びの神様、2番目が少彦名命で商売繁盛の神様、3番目が平将門命で除災厄除の神様です。実はもともと大己貴命と平将門を祀っていたのですが、明治になり、王政復古で国家神道の時代になると平将門は「朝敵」だ、ということで一度はずされて摂社に格下げされ、あらたに少彦名命が迎えられたのです。平将門命が神田明神の祭神として復活したのはなんと昭和59年のことでした。

1616年、徳川家康が江戸に入ると、入り江を埋め立てて江戸城の門前を整えるために神田明神を現在の外神田に移してしまいましたが、何故か将門首塚だけは大手町に残されました。その後、明治維新が起きて、将門の首塚は大蔵省の敷地となり、大正時代の関東大震災から復興する際、塚を崩して平らにされてしまいました。ところが、後に大蔵省関係者に病人や死者が続出し、「これは将門の祟りに違いない」ということで1927年に鎮魂祭が行われ、塚の場所が保全され、現在に至っています。将門はしぶといですね!