クイーン・ボヘミアンラプソディを紐解く!その2!
クイーン・ボヘミアンラプソディを紐解く!その2!
ボヘミアンラプソディを紐解くには先ずフレディ・マーキュリーについてある程度理解しておく必要がある。
フレディは、当時イギリスの保護国だったザンジバル島(現タンザニア)で生まれた。
両親は熱心なゾロアスター教徒であり、フレディは厳格な家庭のなかでインドで幼少期の大半を過ごし、
7歳でピアノを習い始め、1954年8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外のパンチガニにある全寮制の英国式寄宿学校、
セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う。
その頃にはラジオで聴いた曲を、その後ピアノで再現するという特異な能力を持っていたらしい。
1964年にサンジバルの独立革命が勃発したため、当時17歳のフレディと家族はイングランドのミドルセックス州フェルサムに移住、ウェスト・ロンドンにあるアイズルワース工業学校(現在のウェスト・テムズ・カレッジに入学して芸術を学んだ。
その後、イーリング・アートカレッジへ進み、芸術とグラフィック・デザインの修了証書を受けとったのである。
ボヘミアンラプソディの命名には厳格なゾロアスター教の家で育った反動で、自由人への思いがあったようにも思える。
ボヘミアンとはヨーロッパのヴルタヴァ川流域の盆地をさすラテン語の地名であるが、
北インド起源の移動型民族ロマ(勝ってはジプシーとも呼ばれた)とも言われ、
フランスに多く集まった伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている芸術家のロマを指す場合もある。
ラプソディは狂詩曲と訳されているが、自由奔放な形式で民族的または叙事的な内容を表現したり、
異なる曲調をメドレーのようにつないだり、既成のメロディを引用したりする楽曲であることが多い。
曲名ボヘミアンラブソディにあるのは自由奔放の精神であり、
さらに曲の構成も合唱―バラードークラシックーハードロックーバラードと展開することで典型的なラプソディになっていることなのだ。
歌詞はよくわからない面があるが、専門家によればシェークスピアのハムレットとマクベスが引用されていることと、
フレディ・マーキュリーの人生観が込められていると指摘されることが多い。
音楽にはシンセサイザーが使われているが、当時8トラックのシンセサイザーが中心だったときに、この曲は24トラックを実現し、
さらに何度もレコーディングを繰り返すことで180トラックもしくはそれ以上の音を生み出していて革新的な音楽だったらしい。
さらに凄いのは、この曲のオーケストラ部分がステージで演奏できないので、
町のあちこちにビデオレコーダーを置いて大衆に見せたことである。
ビデオカセットを世の中に広めたのはクイーンとも言われている。
日本人がクイーンを最初から応援していたというのはフレディ・マーキュリーの発声にあるのかも知れない。
当時のロックは怒鳴るような歌い方をするのが主流だったが、
彼はクラシック歌手の様な発声法なので聞き心地が良く且つ音域が広いので尊敬の念すらあったのではないか。
理科系のインテリ仲間3人が醸し出すハーモニーも日本人好みであったと言える。
ビートルズと比べたら比較にならないほどの歌唱とハーモニー力であった。
クイーン・ボヘミアンラプソディの音楽会における貢献度はとても高いのではないだろうか!