メニュー

山手線と第2山手線構想! - 天と地にある物事を想い巡らすサイト!よろず放談

お問い合わせ

ブログBLOG

山手線と第2山手線構想!

カテゴリ: 趣味 公開日:2022年04月28日(木)

山手線と第2山手線構想!

山手線は1日約450万人が利用する世界一の路線である。日本の文明開化期に鉄道は私鉄が主導で始まっている。

山手線も私鉄の日本鉄道が当時国内有数の貿易港であった横浜港と関東地方内陸部の埼玉県、群馬県、栃木県、

さらに東北地方および北陸地方方面を結ぶ貨物線として建設したもので、始めは赤羽駅― 品川駅および大井町駅間を結ぶ路線であった。

その後東京市街地の拡大に伴い、市街をめぐる大都市の基幹交通路線に性格を変えていったのだが、

現在の完全環状線に至るまではいろいろな段階がありかなり複雑である。

日本鉄道が国有化されたのが1906年で電車が客車として運行されたのは1909年、

現在の様に環状運転が実施されたのは品川―池袋―田端駅間の複線化が完成した1925年になる。

当時の1周所要時間は72分であったが現在が59分になっている。

山手線と平行してさらに外側に第2の環状線を作る構想は1890年頃にあったが関東大震災でその構想は霧散した。

それを再現させようと立ち上がったのが小田急の創設者である利光鶴丸で、計画は大井町から州崎町まで画像の様なものであった。

dai2yamanotesen

建設費としての見積もりは当時3400万円(現在換算950億円)の巨額であったため、

彼は1928年に東京山手急行電鉄を立ち上げ株式を募った。

資金集めは順調に進んでいたのだが、ニューヨーク株式市場の暴落に起因する世界大恐慌が1929年に起こりこの計画は頓挫した。

執念深いというかしぶといというか彼は1936年に大井町ー駒込間に縮小した計画を国に申請したのだが、

1937年の日中戦争及び190年の太平洋戦争勃発でこの計画も断念せざるを得なかった。

不運としか言いようがない経過だが、当初の第2山手線が実現していれば東京都心はもっと広くなっていたであろうし

経済効果も莫大だった様に思う。

但し東京集中が益々進んでいるとすれば、現在我々が抱える様々な問題に対処するのが厳しくなっていたこともあるので、

どちらが良いか判断するのは難しいようにも思える。